2018/04/23

【信仰書あれこれ】私はなぜキリスト者であるか

日本キリスト教団出版局から鍋谷堯爾の訳でO・ハレスビー(ノルウェーの神学者)の『みことばの糧――日々新たに』、『祈りの世界』、『みつばさのもとに――信仰といやし』 といった好著が読めます。ここでは、むかし聖文舎から出ていた『私はなぜキリスト者であるか』(岸千年訳、1955年) をとりあげます。

訳者は序文で、「本書は、ハレスビー博士の体験から生まれたもので、博士の信仰告白の記録といっても過言で」はなく、「翻訳中いくどか博士の真実あふれる信仰へのすすめに胸を打たれた」と記しています。私にとっても自身の信仰体験と重なる部分が多く、興味尽きない一冊です。

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新書版250頁余りの本書は、「うたがい/うたがいから信仰へ/私はなぜキリスト者であるか/キリスト教の神秘的要素/悔い改めの論理/選択/選択したかたがたへ」という七つの章からなります。

キリスト教への疑いに関する説明から話が展開されます。

  • 少し前の時代には……極めて少数の懐疑者だけでした。他は全部キリスト教の真理を信じていて、聖書を神の言葉として、またキリストを神として受け入れていました。……今では、疑いは、教育を受けた者の間にも、その知識が極めて限られている人々の間にも、多くの人が考えているより以上に一般的であります。……私どもが記憶しなければならないことは、以前存在していた聖書やキリスト教に対する大きな信仰も、あまり価値はなかったということであります。それは、たいがいの場合、個人的な救いの経験もなく環境から引き継がれていたもので、したがって、人格的でない伝統的なものでした。……私どもが記憶しなければならないことは、聖書は神の言葉であると主張するだけでは何ぴとも救われはしないということです。この「信仰」が、どれほど個人に関係を持たず無力であったかは、今、はっきりとわかるのです。(1~2頁)


そして、「信仰」を体験的に知ることの大切さが強調されます。

  • 体験だけが、私どもの霊魂を疑いから確かさへと導くことができるのです。……神は生ける実在です。その人たちは神を体験しました。その人たちの持っているものは、平和と喜びと力とを持った体験の保証です。(12~13頁)
  • 私もまた疑いの様々な段階を経てきました。私は、疑いの持つ苦悩を感じました。しかし、また、疑いから抜け出て信仰に行く道、すべての懐疑者に開かれている道を知っています。……疑いを克服するために私の力添えをあなたに差し上げるのに、私は論理的な議論であなたの疑いに出むかいません。……疑いを処理するためにあなたが通らなければならない体験を指摘しましょう。同時に、これらの体験を得るためにあなたが歩まなければならない道筋を示しましょう。(14頁)


体験と教理、あるいは奇跡との関係については、こう説明します。

  • (人々は)キリストに出会った時に体験した事柄の主要な内容を短い言葉で表す必要を感じました。これらの文は、教会の信仰告白と呼ばれています。……この教会の持つ共通の信仰告白が含んでいる教理に注意してください。これらの教理は、個人が受け入れなければならないものとして教会が示しているのではないのです。……教理は、個人がキリストを自分の救い主として体験するとき確信するに至る、キリストに関わりを持っている事柄を言い表すのです。(17頁)
  • 私どもの心は、基礎となる経験を持たない間は万事考えられないものを宣言することは強要せられるように感じるものです。しかし、私どもの心が事実を経験するとすぐさま、私どもの知的な基礎全体が変えられて、矛盾と不合理性とが消え去るのです。(26頁)


信仰の確信を得るために著者自身が踏んだプロセスが、具体的に示される有益な本です。改訂新訳が望まれま

JELA事務局長
森川 博己

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