2018/04/27

【信仰書あれこれ】わかって、わからないキリスト教

渡辺善太(1885-1978)著『わかって、わからないキリスト教』(1975年、ヨルダン社)をとりあげます。1960~70年代に著者が銀座教会で行った説教をほぼそのまま書き起こしたようで、臨場感豊かです。

以下では、81歳の時の説教「選びの意味転換」のエッセンスをご紹介します。

◇◆◇

本論に入る前に、著者の議論の前提を以下に要約しておきます。
「日本人はキリスト教を信じる時に、自分の力でそれを選んだという意識が強いが、自分で決めたと思っている限り、捨てることも簡単。日本人クリスチャンが洗礼を受けながら長続きしないのには、このことが関係している。要するに、真のキリスト教が分かっていない。自由主義神学も同じで、自分が満足しない教えは捨てるし、合理的だと思える部分だけを受け入れる。つまり、聖書を心から信じて、その前に頭を垂れて聞き従うということをしない」。

以下、本論です。
  • 「自己反省の始まらない信仰」というのは偽物なんだ。(中略)教会へ行って洗礼を受けるようになるまでには、「多くの目に見えない関係していたことが」ずうっとわかってくる。こうなってくると、俺が選んだとは思うが、誰が、ということなく準備がせられていた、ということに気づく。これが信仰による反省です。で、ことに自分自身の過去の生活が反省されてくる。あんなこと、こんなこと、喧嘩したこと、恨んだこと、……そういうことがあったからこそ、徐々に信仰に近づくようになったのだなあと思われるようになる。ここに、そう、「俺が選んだ」という絶対的な自力の宗教の「転換」が現われている。(中略)この翻りができないと、教会もわからない、説教もわからない、牧師も分からない。(52~57頁)
  • 反省の「極」、選びということの「極」が、「神は……天地の造られる前から、キリストにあって私たちを選び……」(エペソ1:3から)。ここまでいく。もう「母の胎内から」、じゃない。私というものがおよそ存在しなかった時から、神の御旨には私があった。天地が創造される以前から、キリストにおいて私を選んでおいてくださった――これがキリスト教で言う本当の「選び」というものです。ここから下がってきて、何のために選びたもうたか、すなわち神の選びの目的ということに考えがいく。そしてそこに使命感が生まれてくる。……この使命の「ために」選ばれたんだ、という「使命感」が出てくる。(58~59頁)
  • 神によって、私は選ばれた。人の誉れを求めるためじゃない。こういう人々のね、本当の満足は内なる満足です。死ぬ間際まで本当に心の奥底から使命に尽くしたという喜びだ。……人にはわからないが俺はあの神様に選ばれた、それで私は存在しているんだ。それで私は毎日の仕事をしているんだ。どうです。本当にこの自覚が内に持てたら――(61頁)
  • この選ばれたという信仰は、もう一度翻らなきゃいけない。選ばれたからその選びを実現するという、この翻りがあって初めて「選び」が起こる。「選ばれて選ぶ」。パウロはキリストに言ってるでしょう。「キリストこれを得させんとて我をとらまえたまえるなり」(ピリピ3:2)。捉えられて取る。選ばれて今度は選ぶ。すなわち他力と自力が完全に一つになる、とでもいうことになるのです。選びにおいて選びとる。今日やったことに満足しない。もう明日は新しく選びとる。……昨日の繰り返しじゃない、去年の繰り返しじゃない。やることは同じように見えても内容がまるで違い、自覚が違うんだ。……選ばれて選びとる、捉えられて取る、知られて知る――これが聖霊の業です。(62頁)
  • 聖霊の業はたくさんありますが、第一に聖霊は、信仰に入るまで、私どもが知らないうちに私どもを導いておいでになる。同時にまた、今の選びがわかってのち、聖霊は我らの内に働きたもう。「神は御心をなさんために汝らの内に働き、汝らをして志を立て、業を行わしめたまえばなり」(ピリピ2:13)。……聖霊が私どもの内に働きたもうて、他動的に、ではない、私どもの意志を奮起さしめたまいて、私どもをして御心を行わしめたもう。……聖霊というと、気狂い(*差別語でしょうが、原文のまま引用)のようになることと思うと、そうじゃない。静かに静かに、神が私どもの内に働きたもう。その御心を行わんために私どもの内に志を立て、これを行わしめたもう。こうなってくると、「選び」ということが第三段階になってきて、選ばれて選ぶ、捉えられて捉える、知られて知るという本当の意味の一致が起こって、渾然と「ひとつ」になる。これが選びという意味の転換です。どうか、最近に洗礼をお受けになった方、四十年、五十年信仰生活におられる方、私どもをも含めて一同、この福音の心底の理解ができて、そして社会的政治的な一切のことへの目が開かれるように。まず根源的には、このことが経験されるようにしたいと思います。(62~64頁)
著者の説教は、『銀座の一角から』(ヨルダン社)『日本の説教者9 渡辺善太(日本基督教団出版局)』や、ヨベルから出ている著作集などから読むことができま

JELA事務局長
森川 博己

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2018/04/25

【リラ・プレカリア(祈りのたて琴)】「JELA NEWS 45号」掲載の寄稿文 オリジナル一覧


リラ・プレカリア(祈りのたて琴)研修講座が201831日の第6期生の修了証書授与式をもって12年間の歴史に幕を閉じました。講座修了者総数は38名。多くの方たちが病院・ホスピス・施設などでパストラル・ハープの奉仕にたずさわっておられます。終了に際して、修了生と講師陣にご寄稿いただいたオリジナル文章を掲載します。

エッセンスを掲載した紙面版をご覧になりたい方は、以下のリンク先(「JELA NEWS45号」電子版の紙面P2-7頁)をご覧ください。

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 修了生の寄稿文

 

 【講師の寄稿文

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リラ・プレカリア(祈りのたて琴)とは、ハープと歌で祈りを届ける活動です。

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【リラ・プレカリア(祈りのたて琴)】Lyra Precaria Director Carol Sack キャロル・サック(英語オリジナル)

今年3月に終了したリラ・プレカリア(祈りのたて琴)研修講座の講師・修了生に、思い出などご寄稿いただきました。

本文はご寄稿いただいたオリジナルのまま掲載しています。
※今回掲載する、キャロル・サック宣教師の原稿は、英語がオリジナルとなります。
日本語に翻訳し、一部編集したものを読みたい方は、以下のリンク先(「JELA NEWS 45号」電子版の紙面P2-3頁)をご覧ください。
http://www.jela.or.jp/newsletter/jelanews/jelanews45.pdf

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Lyra Precaria
Director Carol Sack

When I was finishing my two years of intense studies and training in the US to become certified as a music thanatologist (音楽死生学士)I was asked, “How are you going to offer this work when you go back to Japan?” It was a question I had been asking myself, because this work (what we in Lyra Precaria call “pastoral harp”) is a very unique way of doing service, a completely new way of thinking about music.  I knew that I would be the only person in Japan to have this training. However, when I was asked this question, to my surprise, an answer came forth immediately, from some place inside of my soul.  I replied, “I don’t know exactly, but I know that there will be a way for me to do this work, because the work is important and this work is TRUE.”  What I meant by that is that this work honors the dignity of each human being, no matter what their identity, religion, background, gender or societal position. It honors them because they are a human being, and, as such, a beloved child of God. This, to me, is work that is TRUE.
 
Shortly after that, a medical doctor asked me the same question. I answered him with the same reply. Then he gave me a valuable word of advice~ one which I again knew in my soul to be 確実 true. He said, “They will come to you.” In other words, he suggested that I should not try too hard on my own to introduce this work in a different culture, but rather I should wait for the invitation to come to me.

So, when I returned to Japan in 2002I had a sense of peace that the Lord would open the right doors for me to serve. But I had no idea what kind of doors God would open for me. That was a complete surprise. My hope was to quietly offer this pastoral work in some institution, preferably with those who are homeless or without support. When I met the people of きぼうのいえ, a hospice for homeless persons, they welcomed this work for their patients. I was also invited to serve for relatives and friends of people I knew. With these opportunities, I felt thankful that God had answered my prayers to serve in Japan.

But I guess that was not all that God had in mind. To my surprise, Lowell Gretebeck, who was the head of JELA at the time, asked me to consider teaching this work to Japanese persons. Although I was honored to be asked, I knew it would be impossible for me to do so. However, as I prayed about it, I realized that what is impossible for us humans is not impossible for God. If God is calling me to do this, then God will supply the people, the resources, the guiding concepts, the students and the institutions to cooperate- everything. And, how fortunate I was to have the generous support in every way through JELA’s mission work. Eventually, in faith, I said, “Yes.”

Now, after twelve years, I am in awe of how God has provided everything that we needed: a beautiful and appropriate physical setting (complete with multiple harps!), superb teachers (special gratitude for the amazing music teachers), dedicated JELA support staff, a curriculum solidly based in pastoral-spiritual care, excellent visiting lecturers and the cooperation of the Japan Lutheran College, and now 38 dedicated graduates who are offering their service voluntarily in institutions in various places throughout Japan and Australia. Never did I dream that God had such a picture in mind!

My goal is that we might, by quiet work, raise the level of compassion in Japanese society, not through grandiose plans and movements, but rather one-by-one. For that is how God comes to each one of us, quietly, one-by-one.

Moreover, God has opened doors to share the Story, the Great Story of Christ’s forgiveness, Grace and hope, in places I never would have imagined that we could go.  After 3-11, we have shared the music of prayer in public schools and temporary housing in 東北。We have shared the story and song in countless universities, in prison, for medical professionals, for businessmen, for music-related groups, and of course in churches. 
 
Although the course itself is now drawing to a close, the work continues! I am full of thanksgiving for each person who has taught and studied and worked together in these twelve years. (I must say a special word of thanks to my supportive husband, too!) “Lyra Precaria” is the result of a huge team effort. It is not in any way the work of one person. My life has been immeasurably enriched as a result of getting to know so many excellent people who have given so much of themselves to be of service to others. How blessed I have been!

Finally, my prayer of gratitude goes to the patients, who are our only true teachers, in this work, as well as in life, death and faith itself. It is they who teach us what is ultimately true, what is of lasting value, and how precious each and every human life is.

So, in your own life, as you find what is “TRUE, “ remember: “They will come to you.” God will open the way for you to share His Truth of Love with others, and it may be in ways you never expected.


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【リラ・プレカリア(祈りのたて琴)】私に必要だった8年間 ハープ講師 火ノ川京子

今年3月に終了したリラ・プレカリア(祈りのたて琴)研修講座の講師・修了生に、思い出などご寄稿いただきました。

本文はご寄稿いただいたオリジナルのまま掲載しています。

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私に必要だった8年間
ハープ講師 火ノ川京子

この8年間、リラ プレカリアで良き働きをさせていただけたこと、感謝します。不思議と、亡くなる前の日にお見舞いに行く機会があり、そのたびに、私の頭の中で、ジーザス リメンバー ミーのメロディーと歌が流れました。始めは、うろたえました。一生懸命否定しました。でも今は、この曲が流れるたびに嬉しくなります。みことばの約束があるからです。日本語の歌詞は、イエスよ、御国においでになる時に、イエスよ、私を思い出してください、です。そして、こんな歌詞も与えられました。まことに、あなたに、告げます。あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいます。

キャロル先生、中山先生と筆者(右)
リラ プレカリアは、2年間の学びです。私は3期生から6期生まで、8年間共に学ばせていただきました。キャロル先生に習いたい、1期生になりたい、という願いは、叶いませんでしたが、その4年後、クリスチャンのハープの先生を探している、ということで、ハープの講師となりました。神様は、本当に不思議なお方です。受講生達は、2年で修了しますが、私は8年間、必要だったのでしょう。

ある時、キャロル先生に聞きました。どうしたら、キャロル先生のように弾けるようになりますか?答えは、火ノ川先生には、技術があります、でもキャロルには無いので、イエス様に頼るしかありません。キャロル先生の信仰に脱帽です。

歌の康子先生、直美先生とこのリラ プレカリアの働きに共に携わらせていただけたこと、この8年間は、宝です。LDMも与えられました。神は実にそのひとりごをお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく永遠のいのちを持つためである。リラ プレカリアの修了生のみなさんが良き働きで用いられますよう、お祈りしています。エペソ2-10

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【リラ・プレカリア(祈りのたて琴)】リラ・プレカリアに関わって思うこと ヴォイス講師 渡辺直美

今年3月に終了したリラ・プレカリア(祈りのたて琴)研修講座の講師・修了生に、思い出などご寄稿いただきました。

本文はご寄稿いただいたオリジナルのまま掲載しています。

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リラ・プレカリアに関わって思うこと
ヴォイス講師 渡辺直美

私のリラ・プレカリアとの最初の出会いは映画館の中でした。山田洋次監督が好きで観に行った「おとうと」でわずかな時間映し出されたハープを奏で歌う女性の姿。そのシーンはとても印象深く、映画が終わってからもあれは何の音楽だったのだろうと心の中で何度も蘇ってくるのでした。それから少ししてその映画の中の女性と出会い、リラ・プレカリアという音楽の中に身を置くことができるようになるなんて、神様はなんと粋
なはからいをされるのだろうと偶然ではない何か不思議な糸で手繰り寄せていただいたようなそんな気持ちになりました。

左から2人目が筆者
リラ・プレカリアの講座で歌を担当するにあたって、キャロル先生のハープと歌を横たわりながら初めて聴かせていただいたときのあの感覚は今でも忘れられません。目を閉じているのに目の前はとても明るく輝いていて、まっすぐに空へと続く線が天国への道しるべのように感じました。体は全身マッサージを受けたかのようにほぐされ、温まり、プカプカと浮いていてきっと母のお腹の中ってこんな感じなんだろうなという思いに包まれたのでした。リラ・プレカリアがどんなに素晴らしく必要とされる音楽であるかをこの体験を通してすぐに知ることができました。

 私の祖父はもう長いこと耳が悪く、会話をするときは筆談を求めるくらいでした。なので祖父と最後に会ったとき聴こえないかもしれないけれど、と思いながらも耳元でたくさん歌いました。その時の祖父の表情は今でもはっきりと覚えています。目にいっぱい涙をためて、時に流しながら一緒に口ずさんでいるかのように唇を動かしてくれていました。人は呼吸を通して寄り添いに触れたとき、耳の良し悪しや様々な症状に関係なく、祈りの音、声はきちんと届いているのだと強く実感した瞬間でした。それは門が開かれ神様の元へ帰る準備がなされている愛の証なのかもしれません。『私たちの国籍は天にあります。』と聖書にあるように。「安心してこちらへいらっしゃい。」と両手を広げ待っていてくださっているのでしょう。リラ・プレカリアは痛みや苦しみ、深い孤独から解放され、神様へと繋がる光の道のように思っています。ただただありのままの姿を抱きしめてくれる祈りの音楽。この音楽がいつまでもどこかで誰かのために奏で続けられることを、沁々と今は願うばかりです。

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【リラ・プレカリア(祈りのたて琴)】リラ・プレかリアの12年間に想うこと 講師 中山康子

今年3月に終了したリラ・プレカリア(祈りのたて琴)研修講座の講師・修了生に、思い出などご寄稿いただきました。

本文はご寄稿いただいたオリジナルのまま掲載しています。

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リラ・プレかリアの12年間に想うこと
講師 中山 康子

開講当時は、18ヶ月(初回のみ)で何をどのようなプロセスで講義や授業を運ぶのか、私たち教師陣には先の見当がつきませんでした。日本の風習や慣習のこともあって、キャロルさんも手探り状態だったと思います。一期生が決まって、いよいよ開講に先だつ3月、教師3人で合宿をしました。八ヶ岳・富士見のベネディクト修道院では、必須になる音楽の課題11曲(2期以後は12曲)の選択をしながら、詩編をたくさん歌うミサに参加し、男性修道士が焼く出来たてのパンを味わったのは懐かしい思い出です。当時は母のデイケアを恵比寿の付近にお願いして、 5時にJELAに送り届けていただいていました。ハープの神藤雅子先生は、著名なハーピストとして凜としていらして、ハープのレッスンは、基礎に厳しいレッスンでした。うって変わって、休憩の時の笑いの絶えないリラックスした雅子先生は、リラ・プレカリアの発足時に神様が派遣してくださった特別な人材でした。雅子先生は2期まで教えてくださいました。

時にはお断りするほどの応募をいただいたものの、毎回、次期は開講できるかと不安定な時期を過ごしたものです。このプログラムは6期で修了することになりましたが、これで本当に終了なのだという実感が未だ湧きません。

3期以後はスタッフ全員クリスチャンでしたので、受講生の中にノンクリスチャンがいてくださることは、とてもありがたいことでした。と申しますのは、プログラムを修了して用いられるのはほとんどがノンクリスチャンへのご奉仕です。講義の内容は、 詩編を中心にしていますから、当然キリスト教を基本にした内容にはなるのですが、キリスト教の押しつけにならないように留意することを念頭に置きました。講師として公開講座にお出でくださった方々には、キリスト教界以外に仏教・神道にも通じる、独善的にならない一般的な内容を盛り込んで教えていただきました。
講師にも修了生にも、クリスチャンが多数ですが、家の宗教は仏教だったり、神道だったりとお互いの信じるところを尊重しながら授業を進めることが出来ました。

第2期からは2年間のプログラムになりましたが、それぞれの2年間という時間には、いろいろなことがありました。親しい家族を亡くしたばかりの受講生、親しい方を看護したり、看取ったり、家族の急死の連絡を受けたり、本人の手術が必要になったり、お子さんの結婚がまとまったり、お孫さんの誕生があって子育ての応援にかり出されたり、2年間という期間に人生の大きな節目を経験する受講生が、 教師たちにとっての「先生」でした。リラ・プレかリアを学んで、社会への奉仕を目指したもののむしろ牧師となる道を選んで中途で止めるなど、ごく数名の受講生以外90%以上が、思わぬ経験をしながらも修了を遂げました。その中でも東日本大震災に見舞われ当初は遠距離バスも新幹線も不通になり、津波が汚泥を運び込んだ自宅の庭先に知らない人が流されて亡くなっているという受講生には東京から教師たちが援助物資を運び顔と顔を合わせて無事を確かめたり、また自宅のテレビが地震で窓外に落下するほどの揺れを恐れてオーストラリアに「奇跡」の脱出をした方もいらっしゃいました。北海道から山形、秋田、 福島、奈良、兵庫から、遠距離を毎週通ったかた、このプログラムのために退職金をあてて学んだ方々。一人ひとりのことをこころに留めています。修了生とは、久しぶりに会うことがあると日本的ではありませんがハグするほど親しくなり心が繋がっている思いがして忘れられません。今や、修了生は北は北海道、南は沖縄に広がり、オーストラリアにも進出し、関東では千葉や神奈川、埼玉、東京で奉仕の場を得て用いられています。

想えば、開講のための相談会で、リラの名称が生まれる時にはリラ・プレかリアと決まるまで紆余曲折がありました。詩編の学びに必要な順境・逆境・新境地の用語を提案されたのは、左近豊先生でした。パソコンで、DVDを作成して授業に臨んだり、パワーポイントを駆使して公開講座を準備したり、事情で欠席の受講生には授業のDVDを作成して配布しそれを見た感想の提出で出席に替えたりと文明の利器にも恵まれました。

シシリー・ソンダース医師がイギリスでホスピス病棟を始めたのが1967年とのことですが、リラ・プレカリアのプログラムを考え始めた2005年頃は、日本ではボランティアとして、ホスピスにかかわることあるいは看取りにかかわることはなんとなくタブー視されていることに踏み込むような感触がありました。映画「お葬式」が1984年に公開されたものの、リラ・プレかリアの訓練を続けている間に「おくりびと」(2008年公開)、2010年の「おとうと」公開など社会的に多くの関心を集めるに至り、時代の波がリラ・プレカリアの必然性を後押しした感があります。2期の途中から参加したオレゴン州のリチャード・グローヴ氏の「尊厳ある生と死」(Sacred Art of Living and Dying)コースに通いながら、死のことをこれだけオープンにするには日本では少なくても30年は早いのではないかと感じたことを覆される思いでした。

2年間のプログラムの途中でも受講生からの紹介で外部から特別講師をお願いすることにしたり、受講生のアンケートによって授業内容を考察したり、これら柔軟な授業内容を可能にしたのは、JELAの当時のディレクターのロウェル・グリテベック氏、事務長だった古川文枝氏に後押しされたキャロル・サック宣教師の深い信仰に根ざした人間信頼に依るところが大きいと感謝し、その後継承された中島愛氏、奈良部慎平氏、森川事務長他JELAのスタッフと、そして何よりもそのすべてを導き、守ってくださった神様に感謝あるのみです。sdg

神の国と神の義をまず求めなさい、
  すべてのものは与えられる、ハレルヤ。

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2018/04/23

【信仰書あれこれ】私はなぜキリスト者であるか

日本キリスト教団出版局から鍋谷堯爾の訳でO・ハレスビー(ノルウェーの神学者)の『みことばの糧――日々新たに』、『祈りの世界』、『みつばさのもとに――信仰といやし』 といった好著が読めます。ここでは、むかし聖文舎から出ていた『私はなぜキリスト者であるか』(岸千年訳、1955年) をとりあげます。

訳者は序文で、「本書は、ハレスビー博士の体験から生まれたもので、博士の信仰告白の記録といっても過言で」はなく、「翻訳中いくどか博士の真実あふれる信仰へのすすめに胸を打たれた」と記しています。私にとっても自身の信仰体験と重なる部分が多く、興味尽きない一冊です。

◇◆◇

新書版250頁余りの本書は、「うたがい/うたがいから信仰へ/私はなぜキリスト者であるか/キリスト教の神秘的要素/悔い改めの論理/選択/選択したかたがたへ」という七つの章からなります。

キリスト教への疑いに関する説明から話が展開されます。

  • 少し前の時代には……極めて少数の懐疑者だけでした。他は全部キリスト教の真理を信じていて、聖書を神の言葉として、またキリストを神として受け入れていました。……今では、疑いは、教育を受けた者の間にも、その知識が極めて限られている人々の間にも、多くの人が考えているより以上に一般的であります。……私どもが記憶しなければならないことは、以前存在していた聖書やキリスト教に対する大きな信仰も、あまり価値はなかったということであります。それは、たいがいの場合、個人的な救いの経験もなく環境から引き継がれていたもので、したがって、人格的でない伝統的なものでした。……私どもが記憶しなければならないことは、聖書は神の言葉であると主張するだけでは何ぴとも救われはしないということです。この「信仰」が、どれほど個人に関係を持たず無力であったかは、今、はっきりとわかるのです。(1~2頁)


そして、「信仰」を体験的に知ることの大切さが強調されます。

  • 体験だけが、私どもの霊魂を疑いから確かさへと導くことができるのです。……神は生ける実在です。その人たちは神を体験しました。その人たちの持っているものは、平和と喜びと力とを持った体験の保証です。(12~13頁)
  • 私もまた疑いの様々な段階を経てきました。私は、疑いの持つ苦悩を感じました。しかし、また、疑いから抜け出て信仰に行く道、すべての懐疑者に開かれている道を知っています。……疑いを克服するために私の力添えをあなたに差し上げるのに、私は論理的な議論であなたの疑いに出むかいません。……疑いを処理するためにあなたが通らなければならない体験を指摘しましょう。同時に、これらの体験を得るためにあなたが歩まなければならない道筋を示しましょう。(14頁)


体験と教理、あるいは奇跡との関係については、こう説明します。

  • (人々は)キリストに出会った時に体験した事柄の主要な内容を短い言葉で表す必要を感じました。これらの文は、教会の信仰告白と呼ばれています。……この教会の持つ共通の信仰告白が含んでいる教理に注意してください。これらの教理は、個人が受け入れなければならないものとして教会が示しているのではないのです。……教理は、個人がキリストを自分の救い主として体験するとき確信するに至る、キリストに関わりを持っている事柄を言い表すのです。(17頁)
  • 私どもの心は、基礎となる経験を持たない間は万事考えられないものを宣言することは強要せられるように感じるものです。しかし、私どもの心が事実を経験するとすぐさま、私どもの知的な基礎全体が変えられて、矛盾と不合理性とが消え去るのです。(26頁)


信仰の確信を得るために著者自身が踏んだプロセスが、具体的に示される有益な本です。改訂新訳が望まれま

JELA事務局長
森川 博己

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【リラ・プレカリア(祈りのたて琴)】深い詩篇の学びと恵みの分かち合い 6期修了生 辻二巳

今年3月に終了したリラ・プレカリア(祈りのたて琴)研修講座の講師・修了生に、思い出などご寄稿いただきました。

本文はご寄稿いただいたオリジナルのまま掲載しています。

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深い詩篇の学びと恵みの分かち合い

6期修了生 辻二巳

リラに参加して、私はいままでの他のどこよりも集中的に詩篇の学びをすることができましたことで心が感謝の思いで満たされています。

詩篇23編・104編・121編などの馴染み深い恵みの詩篇ばかりではなく、88編にあるように人間のありのままの状況を時空をこえて照らし出し、リラの授業での、「順境・逆境・新境地」を認識することができました。それは同時に、弱くて情けない私たちへ向けられた常に変わらない神様の慈しみのまなざしがあることの確認作業でもありました。

毎回のキャンドル会で皆様の恵みを分かち合い至福の時を頂きました。私にも数え切れないほどに小さな日常の奇跡が与えられたなあと改めて驚いています。気づかないけれど見落としてしまうけれど、主は共にいてくださるのだという静かな信仰のロウソクの火を灯して頂きました。膝関節を痛めてもっぱら自転車に頼っていますが、リラまでの道は毎回が、繰り返しリラの12曲を歌う私なりの巡礼の道として頂いたと喜んで感謝しております。

この神様を賛美するために私たちは生まれてきたのだと思う毎日です。
お導きの主を賛美しつつ。

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【リラ・プレカリア(祈りのたて琴)】患者さんからのエールを思い浮かべて 6期修了生 遠藤邦子

今年3月に終了したリラ・プレカリア(祈りのたて琴)研修講座の講師・修了生に、思い出などご寄稿いただきました。

本文はご寄稿いただいたオリジナルのまま掲載しています。

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患者さんからのエールを思い浮かべて

6期修了生 遠藤邦子

ずーっと祈ってきたリラプレカリアの学びの道が備えられた喜びもつかの間、自分が考えたよりずっと多くの課題にアタフタ。往復の山形新幹線の中が1番集中できる勉強場所でした。沢山の感動の中から2つ記します。

『ある施設のインターンでのこと』私はハープと歌のご奉仕を終えBedsideに膝まずき、Mさんに挨拶をして頭を下げた時、Mさんは私の頭をなでて下さったのです。立ち上がろうとすると両手で頭を撫でてくださるのです。みんなが待っているので立ち上がろうとすると、今度は両手を私の方に差し出して来るのです。私はMさんの手を握り、しばし心の中で祈りました。私の目から涙があふれてきました。Mさんは私のことをご家族の娘さんか誰かと思われたのだろうか。もしかしたら帰らないで、もっと側にいてほしいと思ったのだろうか。ありがとうと言いたかったのだろうか・・・私は帰りの電車の中で色々考えました。でも私はあのMさんからこのボランティアに対する力強いエールとして受け取りました。それからはハープ、歌の練習の時にMさんを思い浮かべて練習するようになりました。2か月後、Mさんは神様の元に召されました。インターンの時のBed上の多くの先生に感謝します。

『生活の中の詩編探し』 もうすぐ雪が降りそうなある日、孫たちが我が家の明日葉の実をキアゲハの幼虫がわんさかしがみついて、食べているのを見つけた。パパが「小さな幼虫は雪が降ったら死んでしまう」と言っていた「主よ。早く私に答えて下さい。私の霊は滅びてしまいます。どうか、御顔を私に隠さないでください。私が穴に下る者と等しくならないため。」詩編143:7

3週間後、孫たち来宅。すぐ明日葉の所へ。枝にしがみついていた幼虫を箱に入れて家に持って帰ると。ところが玄関に忘れていった。10日後幼虫は蛹になっていた。息子のメールや電話の指示のもと、羽化の備えをしてみてビックリ!。小さな逆三角形の紙の袋に入った蛹が割りばしの十字架に括り付けられているのです。まるで受難のイエスさまが2体。
「私の神、主よ。叫び求める私をあなたは癒してくださいました。主よ。あなたは私の魂を読みから引きあげ、墓穴に下ることを免れさせ、私に命を得させたくださいました。あなたは私の嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。」詩編30:3~4,12

すぐその後、その時学んでいた五感のスピリチュアリティでアゲハ蝶の幼虫と蛹の映像が、何回も出てきたときには更にビックリ。その時学んだことは蛹はその殻の中ですべてが形なくドロドロのスープ状になっていること、そしてその中でアゲハ蝶として再生されること。復活です!

リラプレカリアの学びは最初から最後まで単独の学びは1つもなく、全て関連しており、折にかなった学びがあたえられ、私には感動、そして小さな奇跡の連続でした。裏には沢山の人の色々な思いがあっても、表はしっかり絡みあった、1つも不要な所のない素晴らしいタペストリーのようです。素晴しい講座を受講できたことを誇りに思っています。

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リラ・プレカリア(祈りのたて琴)とは、ハープと歌で祈りを届ける活動です。

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【リラ・プレカリア(祈りのたて琴)】ロウソクの灯火を消さないように 5期修了生 中川愛弓

今年3月に終了したリラ・プレカリア(祈りのたて琴)研修講座の講師・修了生に、思い出などご寄稿いただきました。

本文はご寄稿いただいたオリジナルのまま掲載しています。

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ロウソクの灯火を消さないように

5期修了生 中川愛弓

わたしは、リラ・プレカリアの存在をリーフレットから知った。

正確にはリーフレットを読むことはせず、その表紙の写真だけを見て知ったのだ。
その後、義母の部屋を整理していたとき郵送されていたJELAニュースに偶然、募集のインフォメーションを見た。「あ、これだ...!」と。しかし、私には自分のこと以外に優先しなければならないことが多くあり、受講などができるはずもないので、さらっと目を通しただけでリラ・プレカリアの働きについての予備知識もいれなかった。

JELAニュースで知った講座説明会の日時が記憶に残っていたその当日の朝、教会の用事をすませ説明会に間に合うなら行ってみようかな...とふっと、思った。いつも長引く用事が時間内に終わり、ぎりぎり間に合うことが出来た。

正直なところ、その説明会での印象は、私の中には「あまり、よくわからないもの」であった。しかし、この説明会から「あまり、よくわからないもの」がいつも気持ちの真ん中にあり、とうとう、願書締め切り間近までこの気持ちを持ち続けて、時間の経過とともに「これは、私にとって、チャレンジするべきことなのかもしれない?」という気持ちが強まっていた。

そして、リラ・プレカリア5期生となった。
開講式をむかえる日も私の中の「あまり、よくわからないもの」はそのままであった。
JELAミッションセンター2Fの控室にいた私達に声がかかり、1Fへ降りていくと通路でしばらく待たされ、ホールのドアが開くと、2台のハープが静かに、ゆっくりと奏でられ始めた。部屋の中心に花鉢と灯されたロウソクが置かれ、それを囲むように置かれた椅子。そこを7人の新人はゆっくりと歩き進み着席する。

ハープの音色が身体に沁みこむようだった。
この時、わたしははっきりと感じた。
私の何かが「大切にされる」という愛情を感じ、涙が込み上げてきたのだった。
これまで目的をもって歩き生きているようであっても、深いところの心にある思いは後悔や悲しさの傷。頑なさからうまれる痛み…等々でいっぱいだった。それが、あたたかさに包まれ凝り固まっていたものが溶けだした瞬間だったのかもしれない。
ハープから伝わる波動音がいままで消化できていなかったわたしのDis- Orientationに触れ、愛に包まれたのを感知したのではないだろうか。

リラ・プレカリアの学びは、自分自身で自分の心の奥深くを切開する厳しい学びとなった。わたし自身の魂の痛みをなぞる必要があった。特にキャロル先生の授業からは心や感覚を刺激されるものの体感であったためか、心の痛みとともに気持ちの中に留まり、私の気づきを思考に移すには気持ちが整理されないこともあったが、そういう気持ちを携えていることも恵みだと先生や仲間が気づかせて下さった。

リラ・プレカリアの学びの2年間はキャロル先生とリラ・プレカリア教師から、たいせつに育てられ本当に親切に愛されたと感じている。
学び始めてすぐのわたしたちは皆、どうなるのか不安があったし、様々なプライベートに起きた困難もあった。授業と宿題もハードだったが、同期メンバーや修了生の「信頼できる」人たちがいつも愛を向けてくれていたから落ち込まずに頑張れた。JELA事務局の方々にも励まされたことも思い出だ。

授業ではいつも、キャロル先生の熱い心が込められた「神の愛」が語られた。
わたしたちはすばらしい宣教に出会ったのだと思っている。
授業の準備でもわたしたちにとっての思いやりがいっぱい詰まったものであった。
いろいろなアイディアを用いて、全身全霊でわたしたちへの神の愛を伝えて下さった。
それは、わたしたちへの人生の応援であったし、わたしたちが将来に出会う人々への“生のはじめからおわりまでへの愛”でもあったのだな、と思えるのだ。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している」イザヤ書43-3が、心に沁みてくる。

心の底から、目の前のことに一生懸命になっていたら「あまり、よくわからないもの」だったものが、「大切なたいせつな宝物」となった。

リラ・プレカリアを知りなさい。と神に呼ばれ、“もしかしたら自分に必要な事?と(”疑心暗鬼でも)神の呼びかけに応えたことから始まった学び。授業と宿題に不可欠となっていった「常に神と対話する」ことであったが、今現在もこれからも、そのことで自分を見出し回復していく。

いつもキャロル先生が用意してくれていたのは、私達への祝福だった。
どんな場所でもあの、ロウソクの灯火を消さないようにしていたい。

「感謝の歌をうたって主の門に進み、讃美の歌をうたって主の庭には入れ、
感謝をささげ、御名をたたえよ。」(詩編100編)」

◆◇◆

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2018/04/18

【信仰書あれこれ】森有正のキリスト信仰

現代のアレオパゴス――森有正とキリスト教』(森有正古屋安雄加藤常昭、1973年、日本基督教団出版局』 は、森有正を相手に、加藤常昭(本書発表当時、東京神学大学教授)と古屋安雄 (本書発表当時、国際基督教大学教授)が鼎談形式で話し合い、森有正の信仰を浮き彫りにする本です。

本書から、森有正の興味深い発言をご紹介します。

◇◆◇

プロテスタントの牧師を父に持つ森有正は、中学卒業までの11年間、カトリックの曙星に通わされたそうです。

  • プロテスタントからカトリックになるかという問題で先方から、やいやい言われた時にそうならなかった理由はひとつです。むこうの批判は、プロテスタントは信仰が主観的だから、そういう主観的なものに自分の霊魂の世界を委託していたら、神様が本当にどう思うかわからない。カトリックのように、客観的に神様のおぼし召しと、神様が制定された教会というものに頼って、自分の救いを客観的に全うしなければいけない、というのがむこうの論旨ですよ。……ことにキリスト以来、一貫して続いている教会ということがあるわけですが、これはずいぶんたくさんの人々をゆすぶると思うんですよ。しかし、私は考えたんですが、個人の信仰というのは主観的というけれど、カトリックになるのだって、個人が決心してなるわけでしょう。……感覚的に目に見えているカトリック教会に、自分の一生を託することだって、自分で決心しなければできないことです。それから、魂で信ずる、キリストに自分を委ねるということだって、その点では両方まったく同じで、客観的、主観的という区別はどこにもない。……キリストによって罪が赦される。罪という本質を考えたとき、罪というものが外形的な問題で処理できたりするものでは絶対ないということは、僕の牢固たる確信ですからね。それだから僕は動く必要を感じなかった。……建物とか伝統とか儀式とかによって、客観的だと言っても、そのほうがよっぽどあぶないですよ。(37~38頁)


信仰の確信についてはこう語ります。

  • 結局私は、キリスト教を信じているというのは、……恩寵がその内的権威をもって私どもを強制して信者にしている……私どもは信ぜざるを得ないから信じているという面があると思うのです。信ぜざるを得ないという確証は、「経験」の中で神が我々に与えるわけですよ。それがなかったら、牧師が伝道するなどというのもおかしな話だし……やはり我々の中に、恩寵によって、ともかくキリスト教の神を信じていく以外には自分の生きる道はないんだというところに立たされていないと問題にならないと思います。(77頁)
  • 僕はもう、実際、キリスト教が嬉しくなるということが、本当になくてはならないし、僕にもそれがありますから、そう言うわけですけれども、生まれながらの人間というのは、そういうものを喜ばないものです。なんとなくのんびりして生きたいのに、さあ恩寵だ、さあ十字架だ、それ罪だということになると、みんなしょんぼりしてしまう。けれども、それにもかかわらず、さっき僕が申しあげたように、やはり神様の、ある「権威」に強制されて、ここまで来てるわけですから。それは尊いものだと思うし……。(113頁)


教会で罪を説くことの重要性を強調します。

  • 神様の義というものは、人間の心の中に隠れているものを明らかにさせるものであるという、罪の問題ですね。この問題は、キリスト教が倦まず弛まずやらなければならないと思いますよ。すべての問題がゆきづまった時に、その根底に罪があるということは、これは例外なくそうなんですから。罪がなければ、人間として問題は何もないわけですから。それは、私は非常に確信していることです……なぜ社会問題がもつれ、病気が起こるともつれるかというと、やっぱり本当に人間というのは、己を欲して他人を滅ぼそうとする罪の本質があるわけですからね。家庭の不和にしても何にしてもそうなのだし……神様が存在することを嫌がるという、そういう人間の「罪」の本質というものを、何らかの形で明らかにしていただく、それ以外に人間を救う道はないと思います……で結局、「神様の恩寵」と「人間の罪」の認識ということはひとつのことなのだから、片一方がなければ片一方はわからないわけですから……。(114~115頁)
  • キリスト教の福音の本質が、人間の罪の赦しであるということが、自分の、それこそ私の言葉を使っていえば、「経験」の面に形として(そのような人には)現われていないわけですよ。だから、絶えず観念の面をフワフワ飛んでいるからだめなんです。なぜキリストが十字架についたか、ということがはっきりしないわけですよ。なんか、人間を愛する偉大な理想のためにキリストが十字架についた、なんで考えてるのでしょう(そのような人は)。(122~123頁)


本人の著作以外に、関屋綾子著『一本の樫の木――淀橋の家の人々』 や、た栃折久美子著『森有正先生のこと』(1983年、筑摩書房) も森有正の人となりに触れる興味深い本で

JELA事務局長
森川 博己

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2018/04/17

【リラ・プレカリア(祈りのたて琴)】俺も捨てたもんじゃない 5期修了生 金銀淑

今年3月に終了したリラ・プレカリア(祈りのたて琴)研修講座の講師・修了生に、思い出などご寄稿いただきました。

本文はご寄稿いただいたオリジナルのまま掲載しています。

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俺も捨てたもんじゃない

5期修了生 金銀淑
         
"俺も捨てたもんじゃない"
これは、キャロル・サック先生のリラ・プレカリアのご奉仕を受けられた、ある刑務所の男性のつぶやきです。

それまで荒れた人生を生きてこられた男性の氷山のような心が太陽の温かさの前で無抵抗に溶けてしまった瞬間、発した言葉でした。
まさに、男性が着ていた人生の何重もの武装を脱がせたのは北風ではなく、太陽でした。言い換えれば、神様からキャロル先生を通して注がれた無償の愛でした。


poem & photo by G.S.Kim


愛の香り                Euodia

一本の水仙の香り           Spiritual journey             
天地が揺れる                          within God
begins with Lyra Precaria

                                             
“私たちは神に対するキリストのかおりである。”(コリント人への第二の手紙215節)
For we are to God the aroma of Christ” (Ⅱ Corinthians 2:15


真冬の寒さの中で咲いている水仙の香りは、天地を揺らすかのように深く、リラ・プレカリアのご奉仕をなさる時のキャロル先生のイメージとオーバーラップしました。

神様の愛と慈しみを含んだ歌声とハープの音色は、諸々の苦しむ人々の魂に触れ、スピリチュアルな旅を経て、痛みや悲しみ、不安や怒り、喪失感などから平安に導く力を持っているようでした。

1
月の冷たい空気を甘いものに変えてしまう水仙のように、否定的だった男性の気持ちを肯定的なものに変えることができたリラ・プレカリアの本質は、愛に違いありません。

12
年間のリラ・プレカリア研修プログラムの終了を迎え、修了生それぞれが小さな一本の水仙になって、聖フランチェスコのお祈りのごとく、神様の愛を運ぶ道具になりたいと願ってやみません。


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【リラ・プレカリア(祈りのたて琴)】豊かな学びの2年間 5期修了生 村岡晶子

今年3月に終了したリラ・プレカリア(祈りのたて琴)研修講座の講師・修了生に、思い出などご寄稿いただきました。

本文はご寄稿いただいたオリジナルのまま掲載しています。

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豊かな学びの2年間

5期修了生 村岡晶子

このリラ・プレカリア研修講座での奥深い豊かな学びの2年間は、人生の中の特別な恵みと至福の貴重な時間となった。

リラはすべてに愛と慈しみが行き渡り、先生方も
すべてを受容する姿勢と優しさ、温かさに満ちていた。キャロル先生が心を込めてご準備される『詩編』を中心とするリラの講義は深く豊かで、細やかに配慮された美しい環境空間(ローソクの灯、美しいチャイムの響き等々)はいつも聖霊に満たされ、祈りと希望に満ちていた。その中で私たちは、共に学び、心や魂、いのち、ゆるしと愛、慈しみ、人間について、神と人との関係、人の尊厳について等を考え、また自己と深く向き合い真の人間理解を深めた。そして、『あなたは神さまから愛されている大切な存在です』と通奏低音の様に繰り返されるメッセージは魂の深奥に浸透していき、自分と他者へ開かれた心へと丁寧に導かれた。

実習では、利用者様から『いのち(存在・尊厳)そのものの美しさ』に触れる深い静かな感動を得て、《人は、たとえ目に見える言葉や行いは何も表現できなくても、心(魂)は確かに感じていて、自分の思いを表現したいと希望している》こと、《私の思いで相手を判断することなく、ありのままを受けとめ、その方の内なる魂に心の目を向ける》ことの大切さを心に刻む貴重な経験(神様からいただいたGift)となった。
 
今、この2年間で得たことを心の礎にご奉仕をしている。臨終の時を寄り添うこともあり、利用者様の、「あなたに出会えて本当に幸せでした。ありがとう。」「なんて優しい・・・初めてです。」はそのまま‟リラ“へのお言葉だろう。ご遺族も、「亡くなった場面を思い出す時、ハープを弾かれるお姿と優しい音色が思い出されて悲しみだけでなく優しい気持ちになれます。」と感謝され、リラがご本人とそのご家族をも癒し、支え、希望と安らぎになっていることがわかる。

これからも神さまの小さな道具としてリラの道を歩み続けたい。

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【リラ・プレカリア(祈りのたて琴)】大いなる癒し 4期修了生 大石千絵

今年3月に終了したリラ・プレカリア(祈りのたて琴)研修講座の講師・修了生に、思い出などご寄稿いただきました。

本文はご寄稿いただいたオリジナルのまま掲載しています。

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大いなる癒し

4期修了生 大石千絵

リラ・プレカリア研修講座の修了式で「さあ、これから本当の先生(患者さま、利用者さま)のところへ行きなさい」と送り出されてから4年が経とうとしています。その言葉どおり、ベッドサイドでの奉仕において、毎回一期一会、どんなに多くの学び、多くの恵みを受けてきたでしょう。この道を与えられたことをありがたく思います。

私は現在、聖ヨハネ会・桜町病院の療養病棟で奉仕をしています。回数を重ねるごとに、施設の方々と心が通い合うようになっていくのは大きな励みです。クリスマスには、中村享子療養病棟師長がメッセージをお寄せくださる機会がありました。
「いつもありがとうございます。患者さんはもちろんですが、毎日忙しく心身共に疲れている私たちスタッフにも、心に響く癒しのひとときです。手を休めて聴き入るゆとりはありませんが、その音色を耳にし、心休まるひとときとなっています。これからもぜひ、患者さんのために、すてきな時間を提供していただけたらと願っております」。

昨年は、別の病院を訪ねる機会もありました。その病院にハープが入るのは初めてで、聴き終わってから病院長が「病院にはこういうものが必要だ」とおっしゃったのが印象に残りました。たくさんの方々の死に寄り添うなかで、疲弊し渇きがちな医療従事者の心身に、リラの祈りは潤いをもたらすと感じる経験であり、キャロルさんがよくおっしゃる「リラの祈りの副作用」を見たように思いました。

リラの祈りは、お一人の方の呼吸に集中し命の尊厳に寄り添う小さな働きですが、そこにはいつも、聖霊を豊かに満たし、周囲をも大きく包み込む神の無限の愛、癒しの力を感じます。神に感謝。

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2018/04/16

【信仰書あれこれ】ファンダメンタリストに対する適切な助言

ドイツの神学者ヘルムート・ティーリケは、1963年の半年間に北米各地を訪れ、大学教授・学生・牧師・ジャーナリスト・テレビ関係者等と興味深い対話をしました。『現代キリスト教入門――福音的信仰の核心』(佐伯晴郎訳、1972年、ヨルダン社) でそのエッセンスが読めます。

率直に意見を表明し質問を投げかけてくる学生たちとの議論が特別に印象深かったようですが、その中のファンダメンタリストたちに対して、著者が感じた大きな責任について記した部分をご紹介します。

◇◆◇

ファンダメンタリストは、「自由主義神学に対抗して起こった、アメリカを中心とする、極めて保守的なプロテスタント信者。逐語霊感説に立って聖書の無謬を信じ、進化論や、聖書の歴史的批評的研究に反対する」(本書13頁の訳注から森川が自由に引用)人々です。

ファンダメンタリストの素朴な、しかし信仰を議論する上で無視できない「信念」について、著者は危惧を示し、助けの手を差し伸べようとしています。
・この国のファンダメンタリストたちは、キリスト教信仰の本質を保持しようと望んでおり、……この国の教会の、もっとも信頼性の高い、自己犠牲をいとわぬメンバーなのだ。しかし私は彼らが、思いあがった啓蒙主義者 たちから頭ごなしに批判され、その結果ひじょうに不当に扱われているのを、悲痛な思いで見せつけられてきた。そこで私は、どうすれば、これらのファンダメンタリストたちを助けることができるか、いろいろと考えた。(本書10頁)

逐語霊感説の問題点と歴史的批評的研究の利点を、ファンダメンタリストたちの気持ちに配慮しつつ明快な論理を駆使して説くくだりは、すべての信仰者に有益なものでしょう。

  • 彼(=神)は、人間のペンや筆の運びを指導するようなことで、満足される方ではありません。このことこそ、実は、逐語霊感説を唱えた人々が考えたことでしたが、それを現代風に言うと、天のサイバネティックスという、夢か幻のような考えになります。つまり神は、自動速記機械を操る人と同じことになるのです。(中略)このような考えの別の面が、私たちにとって非常に危険なものとなります。それは、ここから生まれてくる、聖書に対する律法主義的な態度であります。もし私たちが、あらゆる場合において、とにかくここに<文字を持ってこのように書いた>方は神ご自身であるという絶対的理由によって、何かを強制され、意味のよく分からない聖書テキストについては、ただひとつの解釈だけを聞かされたり、比喩的に教えられたりするとすれば、いったいどのようにして私は、この聖書から、神の自由な恩寵について、また私たちはもはや幼稚な子どもではない(エペソ4:14 )ということについて、聞くことができるでしょう。(21~22頁)
  • 自ら人間の歴史の中に入って来られた神は、それにより、まったく確かに、歴史に関する歴史学的な作業を、きよめてくださったということになります。「言葉は肉体となった」とか、「主は僕のかたちを取って、私たちの中に入って来られた」と言いながら、同時に、「そんなに近くに寄って、この人間となった神を眺めてはいけない! お前たちは受肉を調べたり、その歴史を研究したりしてはならない! おまえたちは、この神を、信仰をもって受け取るか、それとも、不信仰によって絶交するか、そのいずれかである」などと言うことは、まったく無理な話であります。(26頁)


歴史的批評的取り組みを著者は全面的・無反省に認めるのではなく、研究者自身の姿勢が問題になることを指摘します。

  • 人間のすべての業には、や自己過信がしみこんでいるが、歴史学だけは例外であるなどということになれば、それはとんでもないことです。知覚する理性とともに反省する理性がある<決して自由奔放な合理主義だけがあるわけではない>のとまったく同じように、信仰から発する歴史の考察――それは神のへりくだった姿を究め、神の和解の業を、感謝を持って記録します――もありうるのです<したがって、すべてのものを相対化する歴史主義だけがあるわけではない>。(27頁)
  • もしも私が、機械的な逐語霊感説に固執するとしたら、私は、歴史学的な問題を信仰の領域から追い出し、それを、信仰なき世界に任せることになります。そして、思想史においてわずかでも学んだ人は、信仰なき世界が、この神の歴史をどのように取り扱うか、教会の「門の外で」いったい何が起こるかについて、よく知っています<ヘブル13:12 >。(27頁)


キリスト教的真理の究明にあたり、著者が重視し強調したいことはパスカルの言葉とされる「船が確実に港に着くことを知ってさえおれば、船中で嵐に会うのは素晴らしいことである」(37頁)に要約されます。

信徒である私たちと共に船中でイエスが眠っておられるのだから、嵐(=ブルトマンらの歴史的批評的聖書解釈)におたおたする必要はないと、著者は次のようにファンダメンタリストを励まします。

  • 自分たちの信仰が脅かされているとだけ思うような人<そうであればあるほど、彼らは神学的課題に対してますます消極的になりますが>には、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを知っている」(ローマ8:28)という聖句でお答えすることができましょう。(60頁)


本書は専門用語が多く翻訳がこなれていないことから、理解しにくい部分もありますが、「教理の拘束性」「奇跡の意義」「真の信仰と偽りの信仰」「異言を主張する人たちとの出会い」「永遠の御国における不信仰者の運命」「倫理と『予定』の関係」「教会の政治参加」などに興味のある人には得るところの多い本です

JELA事務局長
森川 博己

◆◇◆

2018/04/12

第11回川柳ひろば入選句発表!


次の三句が選ばれました(柏木哲夫・選)。冬期オリンピックにちなんで今回の賞は、金・銀・銅のメダルで表します。結果はなんと、ひとりがメダル独占となりました。その名は、高木美帆ならぬ「とんちゃん」。川柳ひろば始まって以来の快挙です。おめでとうございます!

<金メダル>
間違えて野望の党と書いちゃった
<銀メダル>
問題もノコッタノコッタ大相撲
<銅メダル>
獅子舞がテンテコ舞いの人気ぶり

 以下のような佳作もありました(川柳ひろば管理人・選。柳名略)。
  この歳でサンタクロース待っている
  物よりも平和お願いサンタさん
  クリスマス エルサレム危機でリスクます
  「神は愛」単純を複雑にする長説教
  やっと出た便秘じゃなくて世界新
  「疲れる」と言って周囲を疲れさせ
  ペットボトルにも隠しカメラがいる時代
  豆まき後鬼を囲んで恵方巻
  欠伸する猫は時々哲学者
  親探し小池で生まれたアヒルの子
  退職年やけに目に付く賞味期限
  ガラクタを父は自慢母我慢

最後にお知らせです。現・川柳ひろば管理人は今年10月末日で管理人職を辞することになりました。長年のお付き合い、ありがとうございました。今後も、一定数の作品と投句者がそろった段階で随時優秀作を発表してまいりますので、積極的にご投句くださいますよう、お願い申し上げます。(現・川柳ひろば管理人・森川博己)

◆「川柳ひろば」の投稿先:
   日本福音ルーテル社団(JELA)「川柳ひろば」係
   住所:150-0013 渋谷区恵比寿1-20-26 
   FAX:03-3447-1523
   E-mail: jela@jela.or.jp 皆様のご応募をお待ちしています。


【関連リンク】

最新の機関紙「ジェラニュース45号」電子版を掲載しました

皆様にJELAの活動をお伝えする機関紙「ジェラニュース45号」の電子版をホームページにアップいたしました。印刷版は発送済です。ホームページからは「ジェラニュース」創刊号からのバックナンバーもご覧いただけます。

なお、お手元に「ジェラニュース」が届いている方で、ホームページで読めるなら送付の必要がないという方は、電話03-3447-1521、ファクス03-3447-1523またはメールjela@jela.or.jp(件名欄に「ジェラニュース不要」と記す)でJELA事務局にご一報いただければ幸いです。


【ジェラニュースの送付停止のために教えていただきたい情報】

  • 郵便番号
  • ご住所
  • お名前(フルネーム。用いる漢字などもお知らせください)
  • お電話番号

【関連リンク】
日本福音ルーテル社団(JELA)

2018/04/11

【信仰書あれこれ】『使徒言行録』理解の助け

聖書理解の助けになる本として、ポール・L・マイヤー著『最初のクリスチャン』(山田直美訳、1996年、日本基督教団出版局) をとりあげます。訳者あとがきによると、著者は訳書出版当時、米国の大学で古代史を教えています。父は、ルーテル・アワー創始者のウォルター・A・マイヤー。

本書は、新約聖書の『使徒言行録』 にそって、キリスト教が世界に広がる初期の様子をわかりやすく、かつ興味深く記した本です。歴史学・考古学などの情報も豊かに盛り込まれています。

◇◆◇

この本の特徴は、専門的な知識・視点に十分配慮しつつも、学術論文のような堅苦しさを感じさせずに、キリスト教の根が形作られる過程を生き生きと描いていることです。

著者はユーモア感覚のある人で、その一端は次のような記述からわかります。
・『使徒言行録』の第二章のペトロの説教を読むと、そこに現れている劇的なまでの彼の変貌ぶりには誰もが驚かされる。確かにペトロは以前も、時折、その大胆さを示すことがあった。――イエスが「岩」と名付けていたように、実際、彼は信頼される面もあった。だが、全般的にはいろいろと問題の多い岩であった。ガリラヤ湖の波や、カイアファの屋敷での女中のからかい、そして受難日のイエスの審問に出合うと、「岩」はゼリー状になってしまう。……(本書33頁)

・牢の中のペトロは、明らかに過剰なまでの警備に固められていた。(中略)ところが、アグリッパがペトロを引き出そうとしていたまさにその前の夜、まさかと思われたそのペトロの逃亡が、起きてしまったのである。……天使が現われて、手の鎖を外し、分厚い鉄の門を含めて必要な牢の戸はすべて開けたものの、ペトロがなかなか目を覚まさないので手こずったらしい様子が、ルカによって記されている。だが、ペトロを責めないで欲しい。ゲッセマネ以来、重大局面で眠り込んでしまうのは彼のいつもの癖となっていた。(68頁)

『使徒言行録』と同時代の資料をわかりやすく引用しているのも本書の長所です。例えば、こんな説明が見られます。
・最も尊敬されていたローマの歴史家の一人、コルネリウス・タキトゥスは、紀元64年のローマにおけるネロの最初の大がかりなキリスト教徒の迫害について、次のように述べている。(タキトゥスの本からの引用は省略)注目すべきは、もちろん、「おびただしい数の」ローマ人のクリスチャンが処刑されたという箇所である。ラテン語のmultitudo ingensは、はっきりした数を示しはしないが、タキトゥスは他の個所では、少なくとも千に近い、数百という意味で使っている。また、クリスチャンをひどく嫌っていた彼が、わざわざその数を水増しするなど考えられないので、古代史の研究者たちは大体、タキトゥスの言葉を額面通りに受け取っている。(36頁)

本書の主要なテーマは、教会が誕生したペンテコステの出来事と、キリスト教初期の偉大な宣教者パウロの働きです。この本を読むことによって、これらのことが深く学べることでしょう。

著者は、本書以外に『最初のクリスマス』『最初のイースター』という本(訳者は山田直美さん)を出していて、こちらも読み応えのあるものでないかと想像します

JELA事務局長
森川 博己

◆◇◆

2018/04/10

【信仰書あれこれ】ナイチンゲールが看護婦たちに語ったこと

フロレンス・ナイチンゲール は、生涯に一万数千の手紙を書いたそうです。これらとは別に、聖トマス病院にあった看護婦訓練学校の学生宛てに14通の長い書簡を送っています。

14通のうち8通が『新訳・ナイチンゲール書簡集――看護婦と見習生への書簡)(小玉香津子・薄井坦子他編訳、1977年、現代社) に載っています。書簡全体を貫く主題は「看護と科学と宗教(信仰)とのつながり」です。

彼女の深いキリスト信仰に触れられる部分を、以下に何か所か引用します。

◇◆◇

・看護のような仕事においては、忙しくて、もう頭も手もいっぱいといったときに、もし神と隣人とに対する真剣な目標を心の中に持っていないとなれば――たとえうわべは隣人に尽くしているように見えても――決して彼らのためにも、神のためにも尽くしてはいず、もっぱら自分のためだけで終
わっているといった事態が、いともたやすく起こりうるのです。(8頁)

・キリストにとっては、神がすべてでした。しかし私たちは、時に神を見失ってしまいます。一日を病棟で忙しく気を使いながら過ごして疲れきった後でも、「父よ、私の霊を御手に委ねます」という気持ちで心を休めることができますか。また気がかりな患者のことを夜の闇の中で思いながら、「神よ、私を見守っていてくださるように、彼らを見守ってください」と祈れますか。また朝になれば、神のものなる病人の世話を通して、神に仕える一日がまた与えられたと、心をはずませて起き上がることができますか。(38頁)

ローマ人への手紙の第12章 は「私たちのあり方の原則を述べたものとして、この章より優れたものが他にあろうか」と言われてきた章なのですが、そこに「慈善をする者は快く慈善をすべきである」と書かれています。それは、私たちが看護や親切を行うにも、あたかも自分にとっては何でもないことのように、また、人ではなく神に仕える気持ちでせよ、という意味なのです。「互いに思うことをひとつにし」とあるのは、私たちが他の人と同じ思いと気持ちとを持ち、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣き」、自分の中から出て他の人の思いの中に入っていく、という意味です。(46頁)

・私たちは自分の名誉などに関わりなく、正しいことは正しいという理由からだけで行うようにしているでしょうか。私たちが自分の心に、ただひたすら「何が正しいか?」、あるいは(同じ質問ですが)「何が神の意志か?」と問うているようであれば、そのとき私たちは、まさに神の「国」に入ろうとしているのです。(62~63頁)

・私たちが神の前に捧げて恥ずかしくないことだけを口にしたり行ったりすること、これが守るべき原則です。私たちは神の前に、陰口やつまらない中傷や、偽りや色恋沙汰や、不正や不機嫌や、悪意や嫉妬心や、愚痴などを捧げることはできません。これらのことから生じてくる害悪のすべてについて、私たちが責任を負っていることを思いなさい。(90頁)

書簡集全体がこのような言葉で溢れています。看護職についておられる方や、将来そのような職を目指している方に特にお勧めします

JELA事務局長
森川 博己

◆◇◆

2018/04/09

【信仰書あれこれ】20世紀の宗教書ベストワン

米国のキリスト教月刊誌”Christianity Today ”が2000年代初頭に実施した調査によると、現代の宗教家・宗教思想家の著作で時代を超えて重要だと思えるもののベストワンは、C・S・ルイス『キリスト教の精髄』(柳生直行訳、新教出版社、原書名Mere Christianity) だそうです。

ベスト10については以下をご覧ください。ヘンリ・ナウエン の著作を数多く出版している「あめんどう」代表の小渕春夫さんがコメントしています。
20世紀の宗教書ベストテン → https://amendo.exblog.jp/2195684/

ちなみに、何年か前からネット配信のみで日本で情報提供している「クリスチャン・トゥディ」は、上記”Christianity Today”と名前が酷似していますが、無関係です。

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ナルニア国物語」 のC・S・ルイスはキリスト教護教家としても有名で、「ナルニア」自体がキリスト信仰を基礎に書かれた作品です。

『キリスト教の精髄』は、1942年にルイスがイギリスのラジオで一般向けに行った講演を本にしたものなので、大変読みやすいです。

ルイスは英国国教会 の信徒ですが、本書の立場について次のように断っています。
「英国国教会に行くべきか、それともメソジスト 、あるいは長老派 、あるいはローマ・カトリック教会 を選ぶべきかといった問題に関しては、本書から答えを期待することはできないだろう。答えが出ていないのは、私が意識的に出すまいとしているからであって……」(3頁)

この本は、ほとんどすべてのクリスチャンが共通に抱いてきた信仰の中味を説明し、弁護するために書かれています。高度に神学的な問題は扱われていません。そういう議論は未信者にとっては弊害しかないと著者が考えるからです。

本書を著すにあたってルイスが特に心配したのは、自分が書いたことが英国国教会に特有の、あるいはルイス独自の考えであって、キリスト教全体に共通したものとは言えないのではないか、という点でした。その危惧を払拭するために、彼は本書の第二部(クリスチャンが信じていること)の原稿を四人の聖職者(英国国教会、メソジスト、長老教会、ローマ・カトリック)に送り、批判を求めたと言います。メソジストの牧師は、信仰について説き方が不十分と言い、ローマ・カトリックの神父は、それほど重要でない贖罪説の紹介にやや深入りしすぎた感があると不満を述べたらしいのですが、その他の点では、書いてあることについて全員の意見が一致したそうです。

このように周到な配慮をしつつも、本書第四部「人格を超えたもの ― 三位一体 論序説」でルイスは、非常に突っ込んだ自説を展開します。その内容は、ルイス独自の思索と経験に裏打ちされたものですが、私は自分の信仰を理解する上で大いに助けになりました。

本書は、本来的なエキュメニズムに貢献するのではないかと私は思っています。次のような記述があるからです。
「分かれている宗派が、教義 においてはともかく、精神において本当に近づきうるのは、それぞれの中心、つまり、各宗派の生んだ真実の子らが住んでいるところにおいてなのであり、このことはまた、各宗派の中心に何かが、いや何者か(訳者注:キリスト)がおられて、そのお方が、あらゆる信仰上の相違、気質の違い、また、かつて互いに迫害したりされたりしたという嫌な思いなど、一切の妨害物を排して、同じ声で語っておられるのだ、ということを示しているように思われる」(9頁)

ルイスの提示する具体例が機知に富んでおり、柳生直行氏の読みやすい訳文と相俟って、本書に不朽の価値を与えています。自らの信仰を省み整理するために有益な一冊でしょう

JELA事務局長
森川 博己

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【リラ・プレカリア(祈りのたて琴)】東日本大震災の被災体験とリラ・プレカリアの学び 3期修了生 横山恭子

今年3月に終了したリラ・プレカリア(祈りのたて琴)研修講座の講師・修了生に、思い出などご寄稿いただきました。

本文はご寄稿いただいたオリジナルのまま掲載しています。

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東日本大震災の被災体験とリラ・プレカリアの学び

3期修了生 横山恭子

私がリラ・プレカリアの三期生として入学したのは2010年でした。その翌年3月11日に東日本大震災があり、10メートルもある津波が我が家を襲ったのです。今思うと不思議なのですが、前日の木曜日はリラの講義があり「嘆きについて」を学んでいました。そしてその講義の時に私は、クラッシックギターで「ラグリマ」(涙)という曲を演奏しました。なんと「嘆き」を自分の事として体験することになりました。海岸から自宅まで約2キロあり、浸水しましたが流されず、修理して住むことが出来たのですが。

アイルランドにて右が筆者
そのときは新幹線もストップしていて、学びに復帰したのは5月からでした。自宅近辺にかけての流通がストップしており、お店に行っても何も買うことが出来ない状態でしたが、4月9日にやっと高速が我が家近くのインターまで開通になったのを見計らって、キャロル先生ご夫妻、中山先生、当時のJELA職員・中島愛さんが、リラの卒業生・同期生の方々が用意してくださった支援物資をワゴン車に山のように積んで東京から仙台まで来てくださったことは、私も家族にとっても一生忘れることのできない思い出です。イエス様が助けに来てくださったと心から思いました。

しばらくして落ち着いてから、どうして神様は私と家族に「嘆き」を体験させたのだろうと思い巡らし、リラ・プレカリアの学びは病気の方、心に悩みを抱えている方のそばに寄り添い、痛みを共有し祈る働きであることを思いました。失って見なければわからない喪失感、虚脱感、不安を味わったことには意味があると思いました。そして何もできない自分、ありのままの自分を受け入れて他の人に助けていただくことを実体験として学びました。リラ・プレカリアの学びと震災の経験によって神様の大きな愛と憐れみを体験することになったのです。そして何より嬉しかったのは、リラ・プレカリアの学びと震災の経験を通して夫がイエス様を信じてクリスチャンになったことです。

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リラ・プレカリア(祈りのたて琴)とは、ハープと歌で祈りを届ける活動です。

【関連リンク】
リラ・プレカリア(祈りのたて琴)関連ニュース(ブログ)
日本福音ルーテル社団(JELA)ホームページ

【リラ・プレカリア(祈りのたて琴)】リラとのあゆみ 2期修了生 出村由利子

今年3月に終了したリラ・プレカリア(祈りのたて琴)研修講座の講師・修了生に、思い出などご寄稿いただきました。

本文はご寄稿いただいたオリジナルのまま掲載しています。

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リラとのあゆみ
2期修了生 出村由利子 

リラ・プレカリア(以降は「リラ」と呼びます)との出会いは偶然だったようで、実は最初から計画されていたことでした。

昔から教会が好き、人の世話が好き、音楽が好きでした。看護師となり病院や教育に携わりつつ、ホスピスでマッサージのボランティアをするなど、人生半ば以降はホスピスに関係する道を歩いていました。でもいつも自分に何か足りないものがあると、感じ続けていました。

あるとき、リラの講座が開かれると知り、直感でこれだ、と思いました。私に足りないもの、それはこころ・愛でした。

2010年アメリカの老人ホームで
しかし1年半の学びでそう簡単に人間が変わるはずはありません。ハープも歌も苦労しませんでした。ただ詩編が理解できませんでした。特に嘆きの詩編を読むと苦しくなり、苛立ち、怒りがこみ上げてきました。意味を見いだせず、リラに反抗しつつ実習時期を迎えました。そして生まれて初めて呼吸を合わせて歌うことがその場にいる人との一体感を生み出し、空気が澄み渡り、魂の交流ができるという体験をしたのでした。「神と共に在る」ことが祈るということだと知りました。

リラ卒業後、アメリカの教会や老人ホームで、またコスタリカの老人ホームで奉仕しました。言語も人種も祈りには関係ありませんでした。無心に歌いハープを弾き、その場にいる人と呼吸が一つになったとき、たくさんの奇跡を経験しました。

失敗もありました。コスタリカで高齢者がガバっと起き上がり、ハープに殴りかかってきたこともありました。大学の授業中に体調を崩す人や、宗教に対する嫌悪感を示した人もいました。でも出会った人すべてが先生であり恵みでした。

これからもどこに行こうとしているのか、愛とは何か、10年絶った今もわかりませんが神と共に歩む足どりは加齢とは逆に軽やかになっている気がします。これからもどんな先生に巡り合うのかと楽しみにしつつ。多くの恵みに感謝して。

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【リラ・プレカリア(祈りのたて琴)】思い出 1期修了生 西野みゆき

今年3月に終了したリラ・プレカリア(祈りのたて琴)研修講座の講師・修了生に、思い出などご寄稿いただきました。

本文はご寄稿いただいたオリジナルのまま掲載しています。

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リラ・プレカリアの思い出
1期修了生 西野みゆき

まだ、リラ・プレカリアの講座が始まる前、キャロルさんを通して、初めてハープと歌の祈りに出会った時のことをはっきりと思い出されます。音の響きによって沈黙へと導かれ、私の心と体が静まって行く感覚を忘れることができません。その感覚は、今、自分が奉仕をするようになって拠り所となっているように思います。
私の住んでいる千葉県鴨川市から恵比寿、三鷹まで通うことは、田舎者の私にとって大きなチャレンジでした。いつも祈りながら通いました。車酔いで辛かったのですが、それもリラの学びと共に克服できたことは思いがけない恵みでした。沢山の出会いを頂きました。小さな世界で生きてきた私には驚くことばかりでした。全てが私にとって必要な事でした。リラで学んだことは私の宝物です。使わされる様々な場所で、出会う人達とその宝物を分かち合える喜びに感謝しています。

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リラ・プレカリア(祈りのたて琴)とは、ハープと歌で祈りを届ける活動です。

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