2015/04/03

マリー・ルイーズさん福島の原発避難者と連帯

2013年の夏にルーテル大岡山教会で開催された、JELAの海外ボランティア派遣プログラムに参加した方々の同窓会で講師をしてくださった、福島在住のマリー・ルイーズ・トワリさん(ルワンダ出身)が、東日本大震災以降に福島で貴重な働きをなさっています。2月26日付の「THE JAPAN TIMES (ジャパンタイムズ)」に記事が掲載されたのでご紹介します。下記は、英文記事をJELA事務局が翻訳したものです。


福島在住のルワンダ人「希望伝えたい」
ジェノサイド生存者、原発避難者と連帯
2015年2月26日「ジャパンタイムズ」より)


1994年にルワンダ・ジェノサイド(虐殺)から逃れたマリー・ルイーズ・トワリさんにとって、20年前に人々が彼女を助け、また彼女の家族の逃げ場となった福島は、今でも希望の地だ。
「今度は自分が福島の人々に寄り添う番」と信じて、49歳のこのルワンダ人女性は、2011年の福島第一原子力発電所事故により避難を余儀なくされた人々に対して、絶えず支援の手を差し伸べてきた。
マリー・ルイーズ・トワリさん(JELA撮影)
「私は、出会った人々によって、希望を与えられました。だから私も、希望を他の人に伝え、彼らが生き続ける力になりたいと思うのです。」福島市に住み、日本国籍を取得したトワリさんは、流暢な日本語で語る。
2011311日に巨大な地震と津波が東北地方を襲い、またそれによって原発危機が発生した後、トワリさんは、東京のルワンダ大使館から避難することを勧告された。しかし彼女は、大使館職員に「どこにも行くつもりはない」と伝えた。
「当時不安がなかったといえば嘘になります。しかし、私は隣人たちと助け合いながら生活してきたので、大変な時だからといって立ち去ってしまうのはよくないと思いました。」
ルワンダにおける教育向上を目指すNPOの代表を務めるトワリさんは、NPOの他のメンバーと一緒に、学校のジムなど避難所として使われている場所で過ごす人々に対して、ルワンダのコーヒーや紅茶を届け始めた。
2011年の夏ごろから避難者が仮設住宅に移り始めると、トワリさんは「ルワンダ・カフェ」と呼ばれる集まりを、福島県二本松市内二か所の仮設団地で、毎月開くようになった。
「当初は、避難者の方といくらか一緒に時間を過ごしたい、と思ったのです。皆さん最初は『外国人がここで何をしているのだろう』と思われたかもしれませんね。でも通い続けているうちに、皆さんも私に興味を持ってくださって、今では友達のようになりました」とトワリさんは話す。
一回二、三時間のルワンダ・カフェの内容は、その日の雰囲気によって違うという。二月に行われた集まりでは、トワリさんは鮮やかな色の伝統衣装や頭巻きをまとい、十数人のお年寄りの避難者と、ルワンダコーヒーやカラオケを楽しみながら楽しい会話に花を咲かせた。
放射線による汚染で放置状態が続く浪江町出身のアマノ・ヨシコさん(63)は、これらの集まりに「慰められる」と話す。
「気軽な世間話をするだけなのですが、マリー・ルイーズさんが私たちの話を聞いてくださることが、一番大きな励ましになっています。たとえこちらが何も言わなくても『彼女は私たちの気持ちを分かってくれているんだ』と思わせてくれるのです。彼女に会うたびに安心します。」
原発事故の避難者に対するトワリさんの同情心がとりわけ強いのは、彼らの苦境が、わずか100日間で80万人が虐殺されたルワンダ・ジェノサイドの経験を、彼女の中に呼び起こすからだ。
民族間紛争であるルワンダ・ジェノサイドが起こったのは、トワリさんが国際協力機構のプログラムで、1993年の春から10か月間、衣装作りと日本語を学んだ福島県からルワンダに帰国して間もなくのことだった。
「キガリ(ルワンダの首都)の家に戻った時は、心躍る思いでした。しかし突然、内戦によって、いつも通りの生活を送ることができなくなってしまったのです。爆弾が落とされ、私は安全を求めて、三人の子供を連れてただ逃げました」とトワリさんは振り返る。
トワリさんは夫との再会を果たし、一家は隣国ザイール(現コンゴ民主共和国)の難民キャンプに逃れた。
キャンプでの生活は過酷を極め、コレラや赤痢で子どもたちが毎日死んでいった。トワリさんはドーナッツを売って資金を得て、福島のホストファミリーに平仮名のファックスを送ることができた。ファックスにはこう書かれていた。「生きています、どうか助けてください。」
福島の知り合いの助けの甲斐あって、トワリさん一家は199412月に日本に到着した。彼女は福島に定住することになったが、ルワンダで学校建設のプロジェクトに取り組んでいるさなか、福島県を世界最悪規模の原発危機が襲った。
トワリさんは、ルワンダの学校プロジェクトの取り組みを続ける一方、福島県の避難者を100回くらい訪問したという。
「私は、愛する家に戻れないことの辛さを、よくよく分かっています。だから、そういう人たちに一時でも悲しみを忘れてもらって、お茶会を楽しんでもらいたいのです」と彼女は話す。
また、トワリさんは、支援を続けていくことの大切さも強調する。時間の経過が、災難を経験した人の心に重くのしかかることがある、というのだ。
「難民キャンプにつく前は、どんな辛さも思い出すことはありません。ただただ遠くへ、遠くへと突き進んだのです。けれども、走るのをやめて立ち止まったとき、自分の状況をふと考え始めるのです。どうしてこんなに不運なのだろう、どうして私が、と。こんな時、一緒に寄り添ってくれる誰かが本当に必要となるのです。」
ルワンダ・カフェが四年目を迎えるにあたって、トワリさんは、自分と避難者との関係が新たな段階に入りつつあると感じているという。
アマノさんや他の避難者は、救援物資の大量の衣類が使われずに余っていると聞いたトワリさんから勧められて、古着から衣料品やバッグを作り始めた。

トワリさんは、こうした新たな取り組みを歓迎し、こう話す。「私たちの交わりは、もはや一方通行ではなく、一緒に何かに取り組めそうなところまで来ていると感じます。このようなことは、ただ一回だけ会って、それでさようなら、では起こりえなかったでしょう。」
(翻訳:下川正人)




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